Monday, November 7, 2011

とんかつ

須貝はるよ。三十八歳。主婦。
同直太郎。十五歳(今春中学卒業)。
 宿泊カードには痩せた女文字でそう書いてあった。住所は、青森県三戸郡下の村。番地の下に、光林寺内とある。
 近くに景勝地を控えた北陸の城下町でも、裏通りにある目立たない和風の宿だから、こういう遠来の客は珍しい。
 日が暮れて間もなく、女中が二人連れの客だというので、どうせ素泊りの若い男女だろうと思いながら出てみると、案に相違して地味な
和装の四十年配の女が一人、戸口にひっそり立っている。連れの姿は見えない。
 女は、空きがあれば二泊したいのだが、といった。言葉に、日頃聞き馴れない訛りがあった。
 「お一人様で?」
 「いえ、二人ですけんど。」
 女は振り返って、半分開けたままの戸の外へ鋭く声をかけた。ちゃんづけで名を呼んだのが、なおちゃ、ときこえた。青白い顔の、ひょ
ろりとした、ひよわそうな少年が戸の蔭からあらわれて、はにかみ笑いを浮かべながらぺこりと頭を下げた。両手に膨らんだボストンバッ
グを提げている。もう三月も下旬だというのに、まだ重そうな冬外套のままで、襟元から黒い学生服が覗いている。そういえば、女の方も
厚ぼったい防寒コートで、首にスカーフまで巻いていた。
 「これ、息子でやんして.:…。」
 女もはにかむように笑いながら、ひっつめ髪のほつれ毛を耳のうしろへ掻き上げた。
 初めは、近在から市内の高校へ受験に出てきた親子かと思ったが、女中によれば、高校の入学試験は半月も前に済んだという。そんな
ら、進学準備の買物だろうか。下宿探しだろうか。それとも、卒業記念の観光旅行だろうかーーいずれにしても、二泊三日とは豪勢な、と
思っていたが、書いて貰った宿泊カードを見ると、なんと北のはずれからきた人たちである。
 これは、ただの物見遊山の旅ではあるまい。宿泊カードの職業欄に、主婦、とか、今春中学卒業、などと書入れるところを見ると、あま
り旅馴れている人とも思えないが、どうしたのだろう。
 「まさか、厄介なお客じゃないでしょうね。」
と女中が声をひそめていった。
「厄介な、というと?」
「たとえば、親子心中しにきたなんて・・・・。」「阿呆らしい。」
「だけど、あの二人、なんだか陰気で、湿っぽいじゃありませんか。めったに笑顔を見せないし、口数も妙にすくないし・・・・。」
「それ田舎の人たちで、こんなところに泊るの馴れてないから。第一、心中なんかするつもりならなんでわざわざこんなとこまで遠出して
くるのよ。」
「ここなら、近くに東尋坊もあるし、越前岬も・・・・。」
「景色のいい死に場所なら、東北にだっていくらもあるわ。それに、心中する人たちが二晩も道草食う?」
「案外、道草じやないかも、奥さん。まず、明日は一日、死に場所を探して、明後日はいよいよ・・・・。」
「よしてよ、薄気味悪い。」
勿論、冗談のつもりだったが、翌朝、親子が、食事を済ませると間もなく外出の支度をして降りてきたときは、ぎくりとした。母親は手ぶ
らで、息子の方が凋んだボストンバッグを一つだけ手に提げている。
「お出かけですか。」
「はい……。」
この親子は、なにを話すときでも、きまってはにかむような笑いを浮かべる。客のことで余計な穿鑿はしないのがならわしなのだが、つ
い、さりげなく、
「今日は朝から穏やかな日和で……どちらまで?」
と尋ねないではいられなかった。
「え……あちこち、いろいろと……。」
母親はそう答えただけであった。あやうく、東尋坊、と口に出かかったが、
「もし、郊外の方へお出かけでしたら、私鉄やバスの時間を調べてさし上げますが。」
といって顔色を窺うと、
「いえ、結構で・・・・交通の便は発つ前に大体聞いてきましたすけに。日暮までには戻ります。」

母親は、別段動じたふうもなくそういうと、んだら、いって参ります、と丁寧に頭を下げた。

親子は、約束通り日暮前に帰ってきたが、それを玄関に出迎えて、思わず、あ、と驚きの声を洩らしてしまった。母親は出かけたときのま
まだったが、息子の方は、髪を短く伸ばしていた頭がすっかり丸められて、雲水のように青々としていたからである。



あまりの思いがけなさに、ただ目を瞠っていると、
「まんず、こういうことになりゃんして……やっぱし風が滲みると見えて、嚏を、はや三度もしました。」
母親は、仕方なさそうに笑って息子をかえりみた。息子の方はにこりともせずにうつむいて、これまた仕方がないというふうに青い頭をゆ
るく左右に振っている。どうやら、どちらも納得ずくの剃髪らしく、
「なんとまあ、涼しげな頭におなりで。」と、ようやく声を上げてから、ふと、宿泊カードに光林寺内とあったのを思い出した。
「それじゃ、こちらがお坊さんに……?」
「へえ、雲水になりますんで。明日から、ここの大本山に入門するんでやんす。」
母親は目をしばたたきながらそういった。
それで、この親子にまつわる謎がいちどに解けた。大本山、というのは、ここからバスで半時間ほどの山中にある曹洞宗の名高い古刹で、
毎年春先になると、そこへ入門を志す若い雲水たちが墨染めの衣姿で集まってくる。この少年もそのひとりで、北のはずれから母親に付き
添われてはるばる修行にきたのである。
それにしても、頭を丸めた少年は、前にも増してなにか痛々しいほど可憐に見えた。さっき青々とした頭に気づいたとき、まるで雲水のよ
うな、とは思ったものの、本物の雲水になるための剃髪だとは思いも及ばなかったのは、そのせいだが、母親によると、得度さえ済ませて
いれば中学卒で入門が許されるという。
けれども、ここの大本山での修行は峻烈を極めると聞いている。果してこの幼い少年に耐えられるだろうかと、他人事ながらはらはらし
て、
「でも……お母さんとしてはなにかと御心配でしょうねえ。」
というと、
「なに、こう見えても芯の強い子ですからに、なんとか堪えてくれましょう。父親も見守ってくれてます。」
母親は珍しく力んだ口調で、息子にも、自分にもいい聞かせるようにそういった。
ーー息子が湯を使っている間、帳場で母親に茶を出すと、問わず語りにこんなことを話してくれた。自分は寺の梵妻だが、おととしの暮近
くに、夫の住職が交通事故で亡くなった。夫は、四、五年前から、遠い檀家の法事に出かけるときは自転車を使っていたが、町のセールス
マンの口車に乗せられてスクーターに乗り換えたのがまずかった。凍てついた峠道で、スリップしたところを大型トラックに撥ねられてし
まった。
跡継ぎの息子はすでに得度を済ませていたが、まだ中学二年生である。仕方なく、町にあるおなじ宗派の寺に応援を仰いでなんとか急場を
凌いできたが、出費も嵩むし、いつまでも住職のいない寺では困るという檀家の声も高まって、一刻も早く息子を住職に仕立てないわけに
はいかなくなった。住職になるには、大本山で三年以上、ほかに本科一年間の修行を積まねばならない。ゆくゆくは高校からしかるべき大
学へ進学させるつもりだったが、もはやそんな悠長なことはいっていられない。十五で修行に出すのは可哀相だが、仕方がなかった。
自分は明日、息子が入門するのを見届けたら、すぐ帰郷する。入門後は百日面会はできないというが、里心がつくといけないから面会など
せずに、郷里で寺を守りながら、息子がおよそ五年間の修行を終えて帰ってくるのを待つつもりでいる……。
「それじゃ、息子さんは今夜で娑婆とは当分のお別れですね。お夕食はうんと御馳走しましょう。なにがお好きかしら。」

そう訊くと、母親は即座に、
「んだら、とんかつにして頂きゃんす。」といった。
「とんかつ……そんなものでよろしいんですか?」「へえ。あの子は、寺育ちのくせに、どういうものかとんかつが大好物でやんして…
…。」
母親は、はにかむように笑いながらそういった。
だから、夕食には、これまででいちばん厚いとんかつをじっくりと揚げて出した。しばらくすると、給仕の女中が降りてきて、
「お二人は、しんみり食べてますよ。いま覗いてみたら、お母さんの皿はもう空っぽで、お子さんの方はまだ食べてます。お母さんは箸を
置いて、お子さんがせっせと食べるのを黙って見てるんです。」といった。

それから一年近く経った翌年の二月、母親だけが一人でひょっこり訪ねてきた。面会などしないと強気でいても、やはり、いちど顔を見ず
にはいられなくなったのだろうと思ったが、そうではなかった。修行中の息子が、雪作務のとき僧坊の屋根から雪と一緒に転落し、右脚を
骨折して、いまは市内の病院に入院しているのだという。
 「もう歩けるふうでやんすが、どういうことになっているやらと思いましてなあ。」
 相変らず地味な和装の、小鬢に白いものが目につくようになった母親は、決して面会ではなくただちょっとと見舞いにきただけだといっ
た。
 息子の手紙には.病院にぎてはいけない、夕方六時に去年の宿で待っているようにとあったというから、
 「じゃ。お夕食は御一緒ですね。でも、去年とは違いますから、なにをお出しすれげいいのかしら。」
 「さあ・・・・修行中の身ですからになあ。したが、やっぱし・・・。」
「わかりました。お任せください。」
 と引き下って、女中にとんかつの用意をいいつけた。
 夕方六時きっかりに、衣姿の雲水が玄関に立った。びっくりした。わずか一年足らずの間に、顔からも躯つきからも可憐さがすっかり消
えて、見違えるような凛とした僧になっている。去年、人前では口を噤んだままだった彼は、思いがけなく練れた太い声で、
 「おひさしぶりです。その節はお世話になりました。」
といった。それから、調理場から漂ってくる好物の匂いが気づいたらしく、ふと目を和ませて、こちらを見た。
「…よろしかったでしょうか。」
彼は無言で合掌の礼をすると、右脚をすこし引きずるようにしながら、母親の待つ二階へゆっくり階段を昇っていった。

No comments:

Post a Comment